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こころが助かるコラム 人はなぜ、オレオレ詐欺に騙されるのか

加害者側、そして被害者側双方の観点から、

「人は、悪いことをする時には必死になるから」

これが、人がオレオレ詐欺に騙されてしまう理由です。

 

詐欺事件のニュースに対する反応で、

「犯人はそんな大金引き出せる話術があったら、詐欺じゃなくて営業マンや商売をする出資者を募ったらいいのに、、」

と語られることがあります。

気持ちはよくわかりますが、大金引き出せている詐欺犯人達が、合法な仕事で優秀な営業マンになれるかというと、

そうでもないのです。平均人よりは素質あるでしょうけど。

人は、悪いことをしてしまう時には、何故か本当に必死になってしまうのです。だから詐欺も時には成功するのです。

他の犯罪でいえば、コンビニ強盗も、強盗実行できるような健康な身体があったら普通にお金を稼げるでしょうし、ストーカーが一晩で100通以上もメール送信するとか、そのエネルギーをプラスの方向に向けたらと思います。

有名人を必死に誹謗中傷したり住所の「特定」を必死にしている人達もですね。

しかし、残念なことに、これも人間の一面なのです。

「こんなことやってるエネルギーや労力を、プラスの方向に向けたほうが絶対いい」おそらくこれは誰でも理解しているでしょう。

それを頭では理解しながらも、気が付くと、悪いことに必死に没頭してしまう。これもまた、人の一面なのです。

むらん犯罪は決して正当化できません。しかし、何故か、人の「業」なのか、人の心には大なり小なり悪魔がいるのか、

悪いことには必死になれてしまうのが、人間なのです。みなさんも違法行為ではなくとも、なんらかの身に覚えはあるのでは。

タイトルに戻せば、オレオレ詐欺については被害者も、似た側面があります。

(犯罪被害者の方を悪く言うようですが、上記のように誰の心にもある要素です)

オレオレ詐欺は被害者の側も、正攻法での解決方法を探すのではなく、身内を助けたい一心とはいえ、とっさにお金でトラブルをなかったことにしたい、どの心理に陥いらさらています。

そのため、被害者も上記の話のように必死になってしまっているのです。冷静な状況判断ができなくなっているのです。

 

いま、もし、犯罪ではなくとも悪いことに必死になってしまっている方、つい昨日、悪いことにまた必死になってしまい、いま後悔している方が、いれかもしれません。

それは、誰の心にもある、弱さなのです。

必死に虚勢を張ることを、少しだけ一休みして下さい。

そして、自分の心の弱さを、強がらずに、認めてあげて下さい。

本当は弱い、とてもとても弱いあなた自身を、あなただけでも、認めてあげて下さいね。

 

こころが助かるコラム 進化論のよくある誤解パート2 他人と比べない方法

進化論でいう「進化」とは決して「進歩」ではなく、たまたま生じた要素が、たまたま有利になっただけ、との話をしました。

考えてみれば、ヒトとは生存競争に非常に不利な、欠陥だらけの生き物な気がします。

力が特に強いわけでも、鋭い牙や角もない。俊敏に動けるわけでもない。冬は服を重ねなければ野外で過ごせず死の危険がある。生肉は焼かないと食べられない。

子孫を残すのは頑張っても年に1回、出産は命がけ、新生児が自力で生存できるようになるまで少なくとも10年以上かかる、、、

そんな生き物であるヒトが、たまたま生き残り続けて、こうしてあなたも私も、いま、ここにいるわけです。

たまたま偶然に偶然が、たまたまもの凄い重なって、あなたも私も、他の人たちも、絶滅せずに生きてるわけです。あなたの100倍強い恐竜がみんな死んじゃってるのにですよ。

そう考えたら、ヒトの個体同士の、しかもたかだかいま現在の自分の知ってる範囲での、

地位や属性、収入肩書き、赤の他人たちからの表面上の評価、

それらを比べて気にすることが、なんだかずいぶんと、ミクロな分野だと思えてこないでしょうか。

よく、「他人と比べないようにしよう」と言われます。

これはそのとおりとは思いますが、現実に実行し続けるのは、心理的になかなか困難です。

なので、他人と自分とを比べて苦しくなってしまった時は、比べちゃダメ!ではなくて、

頭の中で、恐竜と自分とを比べるイメージや、自分とキリンと首の短いキリン(既に絶滅)の三者を比べるイメージを、浮かべてみてください。

きっと、少し楽になりますよ。

 

こころが助かるコラム 進化論のよくある誤解 ヒトも生き物も欠陥だらけパート1

進化論でいうところの「進化」とは、決して「進歩」の意味ではありません

これは私も誤解していました。

どうしても「進化」というと、能力が上がったイメージや、パソコンやソフトのバージョンアップ版を考えてしまいますよね。

でもそうではないのです。

あれは、

「たまたま偶然やあるいは病気で、それまでとは異なった要素が生じて、それが受け継がれてた際に、

たまたま偶然で生じた自然環境や、他の生き物でもたまたま生じた変異との関係で、

たまたま有利な状態となった要素が、たまたま生き残って、現在に至る」

これだけの事なのです。すべては偶然の重ね合わせだと。進化論は、「変化論」とでも呼んだほうが適切かもしれません。

キリンの首が例としていいですね。たまたま首が長〜いほうが有利になって生き残ってますが、あんな首が長いとかえって不利になる環境も想像できます。

あと、あんなに強かったはずの恐竜が地球から絶滅した時に、どう見ても恐竜よりも弱そうなネズミだった哺乳類が、たまたま生き残ったおかげで、我々はいま地球にいるのですから。

(パート2に続きます)

こころを自分で助ける方法 「人生の意味を悩むヒマがあったらだなー」

以下、普通の人から言われたら腹立つので、「ナチス強制収容所から生きて帰った心理学者の言葉」として聞いて下さい

「なに? 人生の意味や生きてる意味がわかりませんだと?

そんなくだらんことで悩むヒマがあったらだな、まずお前が周りの人らに「生きてる意味」とやらを与えられる方法をとっとと考えろや!!!」

 

まあ、こんな口調ではないと思いますが、そう語った人がいます。繰り返しますがその辺の人ではなく、強制収容所から生きて帰ってきた人の言葉だと思って聞いて下さい。

この発言自体は確かにおっしゃるとおりとは思うのですが、ただ、ちょっとハードル高いですよね。

いま現在、悩み苦しんて、体調壊している最中の人に、「他人に生きてる意味を与えられるようになれ」というのは。

なので、これはあくまで究極の理想、という感じで置いといて、

とりあえず、

「つらいけど、ちょっとだけでも大切な人には優しくしてみよう」

「苦しくてしょうがないけど、1日に1回だけでも、私の大切な人には親切をしてあげよう」

こう、心がけてはどうでしょうか。

これぐらいの心がけであれば、ハードルも高くなくて、自分ひとりで、今すぐにできますよね。

そしてその小さな優しさが、あなた自身のこころも、助けてくれますよ。

こころが助かるコラム ガリレオガリレイはなぜ宗教裁判にかけられたのか パート3

パート2までで、一神教の話をしてきました。

前にも言いましたが、世界の人の半数以上は、一神教の信徒です。

これを、本セミナーのコンセプトに沿って言い換えますと、

「世界の人の半数以上は、神が人類を、すなわち「いま、私が生きてるこの世界も、そしてこの私自身をも、神があえて創造したのだ」との教義を信じて、救われようとしている」

という話になります。

 

人はしばしば、自分が生きてる意味・人生の意味かわからない、と苦しみます。

それに対して、一神教の教義はひとつの回答をくれます。

「あなたは、偉大な神様が、あえて創造して、いま、ここにいるのですよ」と。

 

この教えで人を救おうとする一神教が、何千年も前から続いており、ヨーロッパやアラブを中心に、世界の半数以上の人の心をとらえたのです。

言い換えれば、ヨーロッパでもアラブでも、世界中の人達が、

自分が生きている意味、人生の意味を求めて、さまよっていたのです。さまよって、答えを求めていたのです。

そう、あのガリレオガリレイも。

こころを助けるコラム なぜガリレオガリレイは宗教裁判にかけられたのかパート2

パート1で一神教ユダヤ教キリスト教イスラム教 の説明しましたが、この3つの宗教の信徒を合わせると、世界人口の半数を超えます。

つまり、人類の半分以上の人は

「全宇宙や我々人類は、唯一絶対神(=各宗派により父なる神、主、アッラーと呼ばれる存在)によって、創られた」

というのが、世界や人間について考える上で、大前提なわけてす。

 

タイトルに話を戻しますと、キリスト教の世界観では、全宇宙、つまり地球も太陽も、

神が創造し、今ある形に配置したわけです。

なので、地動説と天動説との対立は、

「神は、地球と太陽とで、どちらを中心に配置なさったのか」という、

神の行動・神の意思に対する、意見対立となるわけです。

ちなみにガリレオガリレイ自身も熱心なキリスト教徒であり、「自然とは、第二の聖書である」と、

完全に一神教の世界観を前提にした言葉を残しています。

(パート3に続く)

 

こころが助かるコラム なぜガリレオガリレイは宗教裁判にかけられたのか・パート1

天文学の話ですが、一神教の世界観が関係している話です

西暦1600年代、天動説を否定し、地動説を唱えたガリレオガリレイは、宗教裁判にかけられ、地動説の撤回を余儀なくされました。撤回を宣言させられた際に、小声で、「それでも地球は回る」と呟いたとするエピソードも有名です。

しかし、そもそもなぜ、ガリレオは宗教裁判にかけられないといけなかったのでしょうか?

地動説と天動説との対立とは、地球と太陽とで、どっちが中心で、どっちが回ってる側かの違いです。これがなんで、裁判沙汰になるのでしょうか? 例えば同時代の日本(江戸時代初期)に、もし地動説を唱えた人がいたとして、お奉行様に呼び出されてお白洲でお裁きを受けたでしょうか?

まず、ないですよね。

 

これは、キリスト教が、一神教であることが理由です。

一神教 ーーー  ここでは、「唯一絶対のが、全宇宙や、人類を含めた全生物、すなわちこの世のすべてを、神が創造した、とする宗教」を指します。

キリスト教は、この一神教です。宗教に詳しくない人も、神が「天地創造」でこの世を創ったとか、神が生み出したアダムとイブが最初の人類だとの話は、聞いたことがあると思います。

そして、ユダヤ教キリスト教イスラム教は、すべて同じ一神教の宗教です。

この3つの宗教は、ざっくり言うと、同じ宗教の、違う宗派です。先の天地創造やアダムとイブの話も、3宗教の聖典において大筋で共通しています。

(以下、パート2に続きます)